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私はなぜ土壌学を学ぶのか?

そもそもの出発点(執筆した2000年当時)

学位を取得し、これから少なくとも十数年(あるいは数十年?)、主体的に土壌学に関わる仕事をするのだということをはっきりと認識するようになった。では、これからどんな研究をしようかなということをつらつら考えているうちに、もっと根本的な問題「なぜ私は土壌学を学ぶのか」「土壌学はなぜ存在するのか」という問いに行き着いた。「“土”についてわからないことを明らかにする」という答えは、“土”の部分さえ他の言葉に置き換えれば、どんな科学の分野についても当てはまる普遍的解答のようではあるが、科学的成果が社会へ与える影響の大きさを考えたとき、この答えは逃げ口上でしかないと私には思えた。そこで、「“土”についてわからないことを明らかにすることは、地球環境問題を解決し持続的発展を実現するために不可欠である」と答えてみた。それでも、「地球環境問題の根本的原因は何か?」「持続的発展とは何か?」「なぜ持続的でなければならないのか」との問いは依然として残った。

はじめに

 土壌は植物の生産者として、また物質循環の要として重要な役割を担っているが、その機能は人間の不適切な管理により損なわれ得るものであり、砂漠化、熱帯林の喪失、地球温暖化、生物多様性の減少をはじめさまざまな地球環境問題につながるということは周知のとおりである。さらに、この意味で我々が土壌をよく理解し、いかに土壌を適切に管理するかを見つけ出そうとすること、つまり土壌学を学ぶことに意義があることも論をまたない。では、土壌学の存在理由(レーゾンデートル)ともなっている地球環境問題を引き起こすような不適切な管理を、人間はなぜしてしまうのだろうか?

1. 地球環境の悪化はなぜ起こる?

1.1. 人口の増加

 地球環境問題の原因としてよく挙げられるのが人口の増加である。

 人口は急激に増加し、現在では60億人を突破している。国連は、2150年に至るまでの地域別および世界全体の推定人口を、出生率と死亡率に関する7通りの仮説の下で予測している。この中で国連が中心的存在と位置づけている中水準予測では、全ての地域の出生率が2100年までに人口置換率(Replacement level fertility:人口維持に最低限必要とされる出生率)に徐々に近づくと仮定し、世界人口は2150年に115億人に達するがその後は増加しなくなるとした。人口増加率が正の値を維持しつづけることはありえない。例えば、1990年水準の出生率が続けば、2150年に世界人口は6940億人になってしまう。これは、全陸地上の人口密度が4700人/km2になることを意味し(1995年現在で42人/km2)、とてもありえないことであり、それ以前に人口増加率は何らかの形でゼロになるはずである。その道筋として戦争・飢饉・疫病などによる死亡率の増加を望むものはいないだろうから、出生率の低下を実現させる必要があるのである。

 出生率低下をどのように実現させるかは倫理的に難しい問題ではあるが、仮に何らかの方法で出生率が低下し、人口が増加しなくなったとしよう。そうなれば、地球環境問題は解決するのだろうか。そうではないだろう。経済活動の活発化に伴い1人あたりのエネルギー消費量は増える一方であるし、各国で見られる消費量の格差が、先進諸国の水準に近づく形で小さくなりつつある。つまり、人口が増加しなくなったとしても、現在のエネルギー消費の趨勢が続けば、環境問題は解決されえないのである。経済活動の活発化による環境問題である。では、経済はなぜ現在のエネルギー消費をもたらし、地球環境を悪化させるのだろうか。  

1.2. 経済における環境

植田(1998)は、経済活動の中で環境への配慮が欠ける理由として、次の2つを挙げている。

 一つは、環境といわれるものの多くは「価格のつかない価値物」、つまり人間生活に不可欠であり価値はあるけれども、無料で無限に手に入る自由財だから価格がつかないと考えられてきた。そのために、各経済主体が価格をシグナルにして行動を決定する市場システムの下では、このような財の配分の効率性や分配の公平性が問われることがなかったのである。

 次に、放射性廃棄物・地球温暖化に典型的に見られるように、環境破壊の最大の被害者は、未来世代であろうということである。未来世代は、現在の市場や公共的意思決定過程に参加できないために、彼らの選好は考慮されない。

 特に現代では、本来人間生活の豊かさを実現するための手段であったはずの経済成長が目的に変わってしまい、経済万能の思想や成長第一主義―これをパックスエコノミカと呼ぶ―によって、人々の思考や行動の枠組みまでが支配されている。その背景には、進歩や成長の理念を導入した近代化があった。  

1.3. 近代化と環境

「グローバルな農業進化」(コーエン、1998)による人口増大期が始まった17世紀に、進歩の観念が重なるように登場してきた。この時代は大航海時代、すなわちコロンブスらによる新大陸の「発見」が続き、ヨーロッパの人々にそれまで旧大陸にはなかった新しい農作物(トウモロコシ、ジャガイモ、キャッサバなど)をもたらした。と同時に、世界各地で新しい価値観と出会った彼らは、キリスト教的な世界像が数多くの「信念の体系」の一つでしかないことに気づき、キリスト教的価値観は弱体化・相対化していった。それとともに、個としての自由な生き方と快楽を求める人間たちが登場し、自然科学と市民主義的な社会思想は、キリスト教に代わって近代における新たな世界像の主役となった(竹田・西 1998)。

ケプラー・ガリレイ・ニュートンといった科学者たちは、自然の法則性を取り出すことに成功し、自然はただ与えられるものではなく、人間が利用できるものとなった。17世紀初頭、ベーコンは「知は力なり」と述べたが、それは科学のもつ力の意識であり宣言であった。

自然科学と並んで、「社会」についても新たな考え方が登場する。中世では社会の秩序(掟や身分制度など)はもともと神が与えたものだと考えられ、世代間のバトンタッチという形(封建主義)を取っていたが、近代化とともに「社会はそれを構成する人間たちがつくりあげたものであり、必要があればその制度や法律をつくりかえることができる」とする「社会契約説」が始まり、人権と議会制を中核とする市民主義的な社会思想につながった。すなわち、近代化とは通時的決定システムから共時的決定システムへの転換であった。「未来世代はぼくたちよりももっとずっと幸せになれる」という進歩や成長の理念が、近代システムの共時性を補う通時性として導入されたのである(加藤 1991)。しかし、環境を不可逆的に汚染し、有限な資源を使い果たすという現代文化の持つ体質は、近代人の考えた「進歩」という歴史像が絵に描いた餅にすぎないことを告げている。

以上のような背景をふまえ、近代の政治・法律・経済を最大限守ったとしても環境保護のためには不十分なのではないかと主張するのが環境倫理学である。  

2. 地球環境問題の解決への方策

2.1. 環境倫理学からのアプローチ

2.1.1. 環境倫理学の3つの主張

加藤(1991、1998)は、環境倫理学の主張を次の3つに集約している。

地球全体主義

 「地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。したがって、原則としてすべての行為は他者への危害の可能性をもつので、倫理的統制のもとにおかれる。」

有限な埋蔵資源に依存する限り、その枯渇は未来世代の生存条件を危うくするものであり、更新可能な資源の循環的使用に改めなくてはいけない。Hardin(1968)は、「コモンズの悲劇」と題した論文の中で、地球の有限な資源と環境のもとで、各個人が経済的利益追求の自由を旗印に最も合理的な個人的利益追求の行動を続ければ、早晩資源の枯渇と環境の破壊により全員の最大損失という結果になることを示し、共有財産を私有化するか政府が利用に対して規制を適用すべきであると結論づけた。

しかし、さらにやっかいなことは、地球温暖化や酸性雨の問題が示唆するように、我々が石油・石炭を枯渇するまで使用する前に、環境が徹底的に破壊されてしまいかねない点である。つまり、資源枯渇の前に環境荒廃がやってきつつある。そこでの問いはこうである。「足りないから節約するのではなく、あっても使用しないという決断ができるか」

世代間倫理

 「現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。」

 1.3.で述べたように、近代化は、進歩と成長の概念を導入し、未来への責任を考えてこなかった。我々が枯渇性の資源を利用するたびに、非枯渇性の資源を汚染するたびに、未来世代の生存の危機は近づいている。この倫理は、後で述べる持続的発展の正当性の重要な根拠となっている。しかし、現在世代と未来世代との間には対話とか合意の可能性がなく(ギブ・アンド・テイクが成り立たない)、世代間倫理が本当に成立するのかという問題が生じる。蔵田(1998)は、世代間倫理を正当化するさまざまな根拠とその問題点を挙げた上で、私たちの選択しだいでは、未来世代の人々の基本的な生活基盤が破壊されることになるということを認識すれば、未来世代の人々に対する責任も意識されるとしている。

自然の生存権

 「人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。」

 この立場は自然には本質的価値(intrinsic value)があるとする自然中心主義といえる。ここでは、その一つの例としてアルド・レオポルドの提唱した土地倫理(land ethics)(1997)の意義と問題点を考える。

彼は、森林での狩猟鳥獣を管理する仕事をしており、益獣(シカ)を増やし害獣(オオカミなどの肉食獣)を減らすことが目的であった。そこで肉食獣が減りすぎたためにシカが大量餓死するという出来事があった。このような生態学的知見から、自然界に存在するものは人間も含めすべて相互依存の関係にあると考えた。そして生命共同体の範囲を水・土・動物・植物あるいは集合的に言えば土地へと拡張し、人間は生命共同体の一員であるとの自覚を持つことが「土地倫理」への第一歩とした。「土地倫理」において我々が倫理的に配慮すべきは、共同体の構成員の利益ではなく、生命共同体それ自身の利益であるとする全体論的倫理である。「あるものは、それが生命共同体の統合・安定・美を保つ傾向にあるならば、正しい。反対の傾向にあるならば、不正である。」

この思想は、さまざまな環境問題に対して一貫した立場からのアプローチを可能にする。また、個々の動植物に権利を認める個体主義的環境倫理を悩ます問題(一匹の蚊も殺してはいけないのか)を避けることができる。さらに、重要な点は、人間の利益を中心に自然環境を保護しようとすると環境保護は後回しにされかねないと指摘していることである。

しかし、次のような土地倫理に対する批判がある。その一つは、事実判断から価値判断は導出できないとする自然主義的誤謬の問題である。つまり、生命共同体の統合と安定についての生態学的知見そのもの(事実判断)からその統合と安定が維持されるべきであるということ(価値判断)は導き出されない。この批判に対して、彼は生態学的知見を学ぶことによって土地に対する愛情・尊重・感嘆の念を我々が持つことで、事実判断と価値判断の溝を埋めるだろうと答えている。二つめの批判は、「土地倫理」が全体の利益のために個体に犠牲を強いる「環境ファシズム」であるというものである。谷本(1998)はその答えの一つとして、「土地倫理」を究極的な行為規範の提示と考えるのではなく、倫理的性格の形成を問題にしているというように、「土地倫理」の解釈の焦点を置き換えることを考えている。三つめは、レオポルドが「土地倫理」の根拠として掲げている、倫理の対象が①個人と個人、②個人と社会、③土地へと進化するという、権利範囲の拡張という歴史的トレンドの存在に対する懐疑である(加藤 1991)。

以上の議論から、環境問題を解決するには、人間と自然、精神と物質との二元論の近代的なパラダイム(その時代に支配的な考え方)を克服し、人間を自然生態系の一部と認識し自然と人間の調和をはからねばならないと考える向きもあろう。しかし加藤(1991)は、この考え方に真っ向から反論している。近代的二元論を克服すると、規制の目標設定ができなくなるからだ。人間と自然が、主観と客観の関係になるという近代的二元論を守ることなしに、地球の生態系を守ることは不可能である。我々には、もはや戻るべき自然が存在しない。その際、目的設定の根拠は人間存在の同一性である。

2.1.2. 環境倫理への批判

環境問題は倫理問題ではなく、技術問題である

以上見てきたように、地球環境問題の解決には、新しい全体主義が必要になる可能性が秘められている。そこで、問題を倫理的に処理しないで、技術的に解決する道を探すべきであり、その道は存在するとする意見がある。これに対しては次のような反例がある。

日本において新車一台が1Lのガソリンで走れる距離の平均はこれまでどのように推移してきただろうか(茅(1998)より引用)。1975年から1982年まで一貫して燃費は向上し、技術によって省エネルギーが達成できた。技術の勝利である。ところが、それ以降燃費が低下している。これは技術が悪化したためではなく、自動車が大型化したためにエネルギー効率が悪くなったのである。つまり、技術的には可能であってもそれを我々が望まなければ問題の解決はできないのである。何を目標とするかは倫理問題であり、どの目標が到達可能であるかは技術問題である。

環境倫理がなくても経済的なインセンティブがあれば環境問題は解決する

 環境倫理を単にライフスタイルの問題と考え、環境倫理が高くなくても適切な税や価格の設定といった経済的インセンティブを導入すれば、市場が環境問題を解決するとする立場である。これは、日本には倫理学の座る椅子がないと加藤(1998)が嘆いているとおり、倫理学について日本人が抱いているイメージが、「現実的でない理想的な視点に立って独善的に義務を押しつけてくるような態度」というような性格づけになっているからである。日本では倫理的であることは法律的であることの外部にあり、法的に規制できないことが倫理的な義務になると思われている。本当はそうではない。すべての法や政策の背後には倫理がある。環境問題の解決にはどのような税を適切であるとするかは、経済の問題ではなく、倫理の問題なのである。

2.2. 環境経済学からのアプローチ

 環境破壊は経済活動の結果であるという認識に立ち、環境と経済の間で生じる諸問題を分析しようとするのが環境経済学である(植田 1998)。

外部性

環境経済学の理論的基礎の一つは、外部性の概念である。ある経済主体の活動が市場での取引を通さないで他の経済主体の状態に及ぼす影響を外部効果といい、影響の受け手からみてのぞましい場合は外部経済、望ましくない場合は外部不経済という。環境汚染等は外部不経済の典型である。

その重要性を初めて指摘したピグーは、鉄道機関車の火の粉が沿線の森林を焼失させる例をあげている(植田(1998)より引用)。森林焼失という損害がなんら補償されていない場合には、このコストは鉄道企業の私的費用には算入されず、競争市場で鉄道運賃は社会全体を考慮したときの社会的限界費用よりも低く決定される。そのため、消費者は森林焼失のコストが含まれていないという意味で不当に低い市場価格をシグナルとして自己の消費量を定めることになり、過大に消費してしまう。いわゆる「市場の失敗」論であり、市場に介入する公共政策を根拠づける議論でもある。この認識は、外部不経済を発生させる経済活動が社会に負わせている費用をその発生者に負担させるべきだという内部化の思想(汚染者負担の原則:Polluter Pays Principle)を生み出してきた。こうした税は環境税の原点であり、提唱者の名前にちなんでピグー税と呼ばれる。

費用便益分析(cost-benefit analysis)

ある経済活動を行うかどうか意思決定する際には、それに関わる費用と便益を知る必要がある。便益が費用を上回れれば、その経済活動をすることになる。費用と便益について考慮すべき期間は、当然費用と便益が発生するすべての期間になる。環境問題におけるこの分析の問題点として次の二つがあげられる。一つは、全世代を通しての利益が犠牲を上回れば、現在世代にのみ利益があり、未来世代には犠牲のみが生じる活動であっても是とするという世代間不公平の問題である。もう一つは、環境の価値―環境悪化が費用として、環境改善が便益として-が、正当に評価できているかという点である。

環境の価値

 環境の改善に対していくら支払ってもよいと考えるか(Willingness-to-Pay:WTP)、また環境の悪化をいくら補償されれば受け入れるか(Willingness-to-Accept:WTA)を測ることで、環境を一つの財とみなす。しかし、環境は通常の財と異なり、明確な市場がないので、ヘドニック価格法、トラベルコスト法、CVMと呼ばれる手法が試みられているが、まだ試行錯誤の段階である。

環境経済学の課題

 環境の価値を正当に評価することはむずかしいことではあるが、もしそれができたとして、環境はそのすべてを市場経済に内部化し合理的な配分の対象とすることが果たして可能なのであろうか?

落合(1991)によれば、環境とは財が交換可能な「質」として限定されてくる母体である。つまり、ある財が市場に内部化されるには、その財が「何であるか」を同定することが必要であるが、それは同時にその財が「何でないか」を同定することでもあるから、その財が交換可能な「質」として限定されるとは、その財を含むより大きな「何ものか」からの限定なのである。したがって、環境の全体は決して市場化し得ないので、環境問題の市場経済による解決は、本質的な限界を持っている。これは、政府統制によって解決されるということを意味しているわけではない。政府が資源を配分する場合にも、財の「同定」に関する上に述べた問題は生じるからである。彼は、環境の全体を我々が合理的に管理することは原理的に不可能であると考え、自らを超越した何ものかへの畏れや謙虚さが必要ではないかと、およそ経済学者らしくない結論に行き着いている。

植田(1998)は、人間によって制御可能な自然と制御不可能な自然があることを認識した上で、経済や開発のマネージメントをしなければならないとしている。その上で、環境経済学の課題は、いかなる社会経済システムのもとで自然に及ぼす不可逆的なダメージを最小にするような意思決定が可能になるかを明らかにすることだとしている。

2.3. 持続的発展とは?

1972年に開かれた国連人間環境会議や同年に発表された「成長の限界」(ローマクラブ)以来、地球環境の悪化や人類文明の危機が認識され始め、地球環境にかかわる様々な国際会議が開かれ(77年の砂漠化防止会議もそのひとつ)、今後の開発のあり方が問われることになった。その成果として、持続的発展(Sustainable Development:SD)という概念が、1987年に発表されたブルントラント委員会(開発と環境に関する世界委員会)の報告書「我ら共有の未来」において提唱された。そのなかでSDは「未来の世代が自らの必要を充足する能力を損なわないようにしながら、現在の世代の必要をも同時に充足できるような発展」と定義されている。SDは、それ以降環境問題のキーワードとして定着してきた。つまり、ここまで述べてきたような世代間倫理を肯定し、それに沿った形で人間社会の未来像を描いている。

持続的発展が満たすべき条件

環境経済学者のデイリーは、持続可能な社会が満たすべき最低条件として次の3つをあげている(Daly 1991)。

①再生可能資源の消費量<再生力

②非再生可能資源の消費量<新しい再生可能資源の開発

③汚染の排出<環境の吸収力

現在の環境問題を見る限り、いずれの条件も満たされていないのは明らかである。たとえば、①については、砂漠化や森林減少、②については、石油資源の利用、③については、地球温暖化やオゾンホールである。

持続的発展と南北問題

SDに関する最大の課題は、途上国が抱くSDに対する違和感である(林 2000)。地球環境の現状を生み出した原因がもっぱら工業先進国にあるのに、どうして途上国も責任を負わされるのか。SDの概念が本来内包している「世代間公平」の思想に、「南」の主張が提起する「世代内公平」の視点をどう組み込んでいくかという課題である。実際、人口増大と経済成長にともなう食料需要の増大によって、資源・環境の問題の解決は多くの途上国において先送りにされているのが現状である。しかし、飢餓や貧困は環境問題と分かちがたく結びついている。貧困なるがゆえに、環境破壊を顧みずに資源を濫用し、環境破壊の結果として貧困が生み出される悪循環の構図である。

こうしたなか、勝俣(2000)は、SDの観点からみた南北問題の解決には、この問題を「南」の「北」への追いつき問題として位置づけず、南北ともいまだ各地に残存している地理的多様性に大きく依存する生活・生業形態の多様性を維持するなかで、まず絶対的貧困を解消することだとした。したがって、SDのための国際協力があるとしたら、それは「南」が「北」へと追いつくための開発援助ではなく、「北」の工業国みずからが、地域の多様性に立脚した対外資源依存を減らすようなエネルギー消費節約型の社会形成のためであるという指摘に我々は耳を傾けるべきであろう。

 また勝俣は、近年途上国において急速に進行しつつある都市化が持続的でないことを指摘し、中小都市形成を通して地域の持続性を高めることを提案しているが、この考え方は祖田(2000)が農業の経済価値・生態環境価値・生活価値を総合的に実現する場として地域―中小都市と農村の複合体―を想定していることと一致しており、興味深い。

3. 科学の果たすべき役割

科学の社会的責任

以上のような状況のもと、科学特に自然科学はどのように環境問題に関わっていくのか。「1.3.近代化と環境」で述べたように、近代科学は中世以来の宗教の呪縛から人間を解き放ち、デカルトに始まる人間と自然を分離する自然観、ニュートンに代表されるような機械論的(要素還元主義的)自然観に基づいて発展し、人類の「発展」に貢献してきた。そしてその結果、現在の環境悪化に「貢献」してきたという負の側面。一方、科学が地球温暖化、生物多様性の減少など様々な環境問題の実態を適確に明らかにし、環境倫理学や環境経済学といった学問領域に適切な材料を与えてきたという正の側面。そこで科学の価値中立性というウエーバー以来の概念に従い、科学それ自身に問題の責を求めるのはおかしいとする意見がある。科学をつかう人間の責任であるというわけである。

ところで科学が明らかにするのは、本当に客観的事実であるかという疑問がある。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり。」と、主観と客観に裂け目を入れて以来、我々が知覚している自然は、我々なしでは存在し得ないと考えられている。我々が客観的に存在していると思う事柄は、単に我々が存在すると共通了解しているにすぎない。事実とはその程度の足場の上にしか存在していないことを自覚すべきであろう。そうすれば、科学とはまぎれもなく人間の営みであり、人間によって引き起こされている問題から科学だけが逃れられるわけではないことを認識することになろう。

物理学者のアインシュタインやオッペンハイマーがアメリカの原爆開発に手を貸したことで、戦後激しい苦悩に打ちひしがれたことは有名である。実用以前の原理(科学的事実)は、価値中立的であるとしても、科学が実用化・社会化された時に社会や自然に与える影響はますます大きくなっており、科学の社会的責任が問われている。研究の目的を公共的にチェックする場が研究室と社会との間にないので、危険な技術については、出所である研究室で抑えてほしいと要求されている。しかし、そのようなチェックの場を設けたとしても、誰がその関所に立つのか、その専門家育成の見込みは全くない(加藤 1997)。したがって、「なにが正しい目的であるか」という関所を科学者自身が持つ必要があり、その意味で科学は価値からは自由ではいられないのである。環境倫理学や生命倫理学はその関所に考え方を提供するだろう。

実際科学としての土壌学

 祖田(2000)は、農学を工学・医学・薬学・経済学などとともに、自然科学と人間科学の統合によって生み出される価値追求的な科学―実際科学―の一つであると考えている。自然科学は、自然現象を対象とし、そこに働く自然法則を発見し説明しようとする。人間科学は人間とその社会の現象を対象とし、精神的・社会的事実の意味連関を理解し解釈しようとする。そして実際科学は、人間と自然の交渉局面、人間の自然への働きかけを対象とし、その目的的行為の実現にもっとも妥当な型を発明し確立しようとする。したがって、実際科学としての農学においては、基礎研究と応用研究の区別もあくまで便宜上のものにすぎない。祖田が引用しているクルチモウスキーの白蟻の例について紹介すると、農学では人間の住まいである家屋を白蟻から守るという目的を設定することから始まる。その目的実現のために白蟻の生態を明らかにしたり(基礎研究)、駆除方法を究明したり(応用研究)するということになる。

 土壌とは人間が自然に働きかける界面であるから、土壌学とはまさしく実際科学である。そして環境問題の解決や持続的発展の実現をめざす土壌学が追求する価値は世代間公平といったここまで述べてきた価値ということになる。では、どんな研究がこの目的にかなうのか。環境問題の現状を適確に明らかにし、価値をより適切なものに調整する研究、我々の選択が未来世代に与える影響を予測する研究、地域の多様性と持続性の関係を明らかにする研究、人間と自然の相互作用を明らかにし、生態系への理解を深める研究などが考えられよう。

 途上国で我々が研究する意味についても触れておきたい。勝俣(2000)が指摘しているように、我々「北」の人間はまず自らの持続性を実現するために行動すべきであるという批判がある(「持続的発展と南北問題」の項参照)。途上国の環境を悪化させる生活を先進国で続けながら、環境問題の解決に従事するとはおこがましい、その前に自分の国ですべきことがあるだろうというわけである。それでも途上国で研究を行うとしたら、「南」と「北」の連帯を強めるためでなければならない。「北」から「南」への視点で言えば、研究を現地の人との相互作用の中で実施すること。我々だけで研究し、現地の人が主体的に研究をすることがなければ、いつまでも我々が途上国に赴くことになってしまう。その意味で、我々の仕事がなくなったとしたらそれは喜ぶべきことであろう。もう一つは、研究成果の自国への還元という「南」から「北」への視点。地球全体主義の観点からいえば、途上国の問題は対岸の火事ではない。また、途上国から先進国の問題が浮き彫りになることもあろう。地球社会として守るべき共通原理とはどのようなものであるのかといった問いに対する答えを提供するだろう。

おわりに

結局、最初の問いには十分な答えを与えることはまだできていない。これだと思える答えが見つかるのか?そんな問いに答えようとするのは徒労ではないか?そんな暇があったら実験でもしていろといった意見もあるだろう。しかし、答えを見つけようと努力することこそ人間の本性であることにあなたが同意するなら、土壌学の存在の意味という、より根本的な問いに答えようとせずになされる研究のうすっぺらさにも同意するはずである。

土壌学が価値追求型の科学であること、追求すべき価値は持続的発展の実現であることを承認するなら、我々の日々の暮らしもこの価値に基づくものでなければいけない。土壌学を学ぶとは我々の生き方をも問うているという事実に自覚的でありたいと思う。

参考文献

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